「間借り」の生活。

「間借り」しながら発信します。一応「ミニマリズム」志向してます。

生活のエッセンスを掴みたい。

今日は前から望んでいた通りネット三昧の一日だった。でも、それが私がやりたい全てではない。私がネットを見るのは「生活から逃げるため」ではなく、「生活を愛するため」だ。これまで力を入れてきた「ドミトリー趣味」だってそう。ミニマリズムを知ることで、ちょっとした掃除と気の持ちようが楽しい人生に繋がるということを知ったのだ。

それでミニマリズムのことについてブログしたりしてみたが、ミニマリズムを抽象的に追いかけるばっかりになってヨロシクない。もっと等身大で実際のことを書くべきだと思った。私はいわゆる「ミニマリスト」でないし、「ミニマリスト」にもなれそうにない。でも、このアイデアを生活の指標とすることでスッキリした気分の生活を維持していきたい。そのためにはもっと日常のことを書くべきだと思った。書いても面白くないことばっかりだけど、それが「スッキリ生活」につながるならやってみようと思う。

ドミニック・ローホーの教えること。

ベルジャンのミニマリストであり大学で教鞭をとるドミニック・ローホー氏は、ミニマリズムに核を与える言説をたくさん生み出している。

ミニマリズムは、一種のZENであり、言説化されることを嫌う(実践してナンボ、行動にしてナンボの感覚)ので、何がミニマリズムであり、何がそうでないのかっていうことも今一つハッキリしない。

身の回りのモノをとにかく闇雲に整理(断舎離)することやスキなモノだけに囲まれて快適に生活するってことだけを伝えることに終始してるミニマリストは多い。例えば毎日捨てるモノを探しては自らを「スッキリ」させ、UNIQLOMUJIなんかで自らの生活を(センス良く)演出してますみたいな感じのものが大半だ。しかし、実際の彼らはもっと深みのある生活をしているだろうし、ミニマリズムについて色々と試してみたり悩んだりしているに違いない。しかし、自分のライフスタイルや根底にある思想を抽出して伝えることにはあまり興味が無いので、私たちにはそのスタイルが披露されるばかりで何か肝心なものが伝わってこない。結局彼らのやっているミニマリズムらしいことを猿真似するのに終始することになる。つまり、ミニマリズムの中で「迷って」いるのだ。もうちょっとミニマリストとして何を考えているのか、何に悩んでいるのか教えてほしいと思う。

しかし、先に書いたドミニック・ローホー氏は、そうしたことを明確にして伝えてくれる。彼女の言うことは私たちが自分のミニマリズムを打ち立てるのに大変役に立つ。彼女の言うことは大変シンプルだ。(ミニマリストなんだから当然か)

それは「自分という存在の支えにならないものは全て捨て去りなさい」ということだ。それは身の周りのモノから人間関係に至るまでありとあらゆることに適用される。

日本のミニマリストはよく「スキなモノ(あるいはヒト)だけに囲まれてスッキリ生きる」というけれど、ドミニック氏によれば「例え自分がスキなモノやヒトであっても自分の根本を支えていないのであれば、それはムダなもの」なのだ。

こういう視点があると無いのでは、同じミニマリズムを志向するにしても全然違ってくると思う。そういう肝心なことをハッキリ教えてくれるのがドミニック氏の言葉なのだ。

ミニマリズムの感覚

前にミニマリズム建築と言われる家屋を見た。長細い家の中にあるのはベッドとテーブルくらい。驚いたのは室内から空が見渡せること。そこはガラス張りなんだろうか、まさか天井が無いということはないだろう。
この建築を見て感じたのは「スッキリ感」の飽く無き追及。家そのものが細長いので一点透視図法みたいに、こちらから向こうまでずぅっーと見通せる。この視線の通りの良さがこのスッキリ感のキモだと思う。
とすると、普通の生活する上でのミニマリズムも、要はこの視線の通りを追及するがゆえにいわゆる「ムダなもの」を取り除いているのではないか。それは生活の要請というよりも美学の領域に属すると思う。
確かにこの「スッキリ感」を確保することで、気分良く暮らせるのなら少々の不便が何だというのだ。逆にこのスッキリ感に貢献しないモノ捨てはあまり意味が無いのでは。
よくミニマリズムを掲げるブログなんかで毎日捨てるものを探してはアレ捨てたコレ捨てたっていうのがあるけど、それって「捨てる」ということがミニマリズムに通ずるという見当違いな方向に走ってしまった例ではないのかな。
何にせよミニマリズムはある種の美意識を日常生活の中で実現しようというものだから、当然多少のムリは出てくるのだと思う。先に書いたミニマリズム的なお家にしても、モノを置けるような空間は無い。物理的にはあるが、デザインが、それを許さないって感じで。もし、本当にここに暮らすのなら、大きなストレージが要るだろうな。

ミニマリズムの根幹にあるもの。

ミニマリズムって、数あるミニマリストがいて、人ごとに言うことも違うので、これが「ミニマリズム」なんだねってものは見当たらない。でも、そういうのを見たり読んだりしてると、ある共通した感覚が見えてくる。

それは「捨ててこそ」という感覚だ。何かを得るために色々と苦労したり、あれこれ考えたり、それなりに時間がかかったかもしれない。しかし、それを敢えて「捨てる」のだ。ミニマリスト的な感覚を持つ人々はその「捨てる」効果、「捨てる」行為の次にやってくるものに気づいているか、そこに何かあると感じてる。

ヒトそれぞれミニマリストになった理由を述べ、以前の生活の何が間違っていたかを分析している。しかし、実はそんなこと"どーでもいい"のかもしれない。

理由も経過もへったくれも無く、「ただ捨てる」のだ。そうすることでそれまでの努力とか積み上げてきたものとか流れといったものとか、とにかく「しがらみ」と決別できる。そして、その「決別」こそ、ミニマリズムの根本にあるものなのでは?

しばらくこのアイデアミニマリズムというものを見てみたい。

ミニマリストは何を問うているか。

スタバでスタックしてスマホでネットしてたら面白い映画を今上映していることを知った。「ホームレス ニューヨークと寝た男」っていう映画なんだけど、かつて(今も)モデルとして華やかな世界に生きてきたオトコ(マーク・レイ52歳)が人生謳歌しすぎてイソップ童話のキリギリスみたいになってしまって、ビルの屋上に住みながら、結構都会的な生活をしてるというドキュメンタリー。

トレーラーでは「究極のミニマリストか?」と字幕してるんだけど、日本でイメージされているミニマリストとは文脈的に違うと思う。でも、この映画の中のヒトも日本のミニマリストと呼ばれているヒトビトも、「Life」=人生=生活ってものを問い直しているという根っこの部分は同じみたい。ミニマリストの人々もさすがに「家」や「家庭」って呼ばれているものをリストラしないけど、映画の中の元モデルは屋根のある生活、家族のある生活も「要らない」ということにしている。そして、街中のロッカーの中に生活用品を詰め込み、スポーツジムのバスルーム(トイレ)でカラダを洗う。こういうのは私も「えー?これってミニマリズムではないでしょ?」と思うが、彼の生活は、私たちの生活を、もっと大げさに言えば人生の在り方をこれまでに無い視点から問い直してくれる。それはミニマリズムを初めて知った時の衝撃に似ている。

マーク・レイみたいに家も持たずにフツーのホームレスとは違ってソーシャルしながら「ノーマル」な生活を送ることができるとしたら、「家」って何なのか。ホントにそれはリストラ出来るものなのか。翻って私は家というものに過剰なモノを詰め込み過ぎではないのか。こだわって家を自分の家や部屋を自分の趣味で飾っているヒトは立派にパラノイアではないのか。

マーク・レイに限らずミニマリスト系のヒトは全てをひっくり返して「あなたの生活のそれが何なんだ?」と問うているみたいで面白い。

iPhone上でミニマリズムを感じる。

iPhoneを持ってたけど、メインに使ってるのはなぜか中華パッド。便利さもデザインの良さもiPhoneの方がずぅと上なんだけど、なんだか使う気になれなかった。それでキズだらけで反応が悪い中華パッドの液晶画面をガシガシやつまていた。
でも、ふと思ってiPhoneにインストールされたアプリを軒並み削除し、ツイッターなんかの複数のアカウントなんかも一つに限って、後は全部削除した。
するとどうだ、「iPhone、やっぱりイイね」って感じになってきた。使い勝手が向上した訳ではない、何か機能が加わった訳ではない。「要る」と思ってたものを軒並み捨てて、シンプルな形に戻しただけなんだが、それが実は大きな変化であることを知った。
確かに中華パッドは見た目もパフォーマンスも三流だけど、そのパフォーマンスの低さゆえ、インストールしてるアプリはメールとブラウザの他に二つのアプリがあるだけだ。そのスッキリさに私が使い良さを感じてたのだろう。
こうなると、「便利」ってなんだろう?って思う。「便利だから」、「楽しそうだから」数多くのアプリをインストールしたはずなのに、それがいつの間にかシンプルさを損ない、心理的障壁となって、その機器を使うことさえ避けさせるようになっている。
今回使い込んでいたガジェットを買った時の形に近づけることで新鮮な感じで又使うことができている。つまり、あれこれアプリをインストールするのは良く無かったということだ。極論して新品状態を損ねるような付け加えは、たとえそれが機能や便利さを高めるにしても結局のところ、ガジェットを「ゴミ化」してるのだ。ユーザーはガジェットの「ゴミ化」を食い止めるため、とにかくガジェットのシンプルさを維持しようとしなければならないのでは。
ミニマリスト」になれないにしても、「ミニマリズム」という見方感じ方は必要だと思った。それは意識化にある精神の健康を復調させてくれるもの、と言ってもイイだろう。

ホントにミニマリスト出来たらいいよね。

もしホントにミニマリズムが身についたら良いこと多いと思うけど、その最大のメリットは二つあると私的には思っている。
一つは精神衛生上のメリットで、常に「スッキリ」した気分でいられるということ。人間の感覚というのは意識するにしろ意識しないにしろ常に周囲から情報を収集し、それを整理している。つまり、モノの数が多いと発せられる情報も多くなり、頭の中でそれを整理するのに労力がかかっているのだ。反対に目にするモノが少ないと、その整理は簡単に済んで負担とならない。その負荷からの解放感が「スッキリ」という感覚なのだと思う。
もう一つは経済的にムダな出費が抑えられるということ。ミニマリズムは基本的に収縮志向であり、ムダに買い物をしないようになる。それは思想的なものよりも「スッキリ」した精神状態ゆえ、そのイライラを解消するような不満解消買いが無くなるのだと思う。
この二つだけでもミニマリストになる価値は十分ある。しかし、ミニマリズムがそこかしこに浸透しないのは、ミニマリスト状態を維持するには不断の努力が必要もだからだ。そもそも「生きる」ということが次から次に付加していくことなのだから、自然にしておいて「スッキリ」にはならない。そもそも人間は常に移動して暮らす生き物だったから、多くのものを蓄えるなどということは出来なかった。しかし、定住するようになると、ありとあらゆるモノを蓄積できるようになり、得たモノを溜めていくようになったのだ。モノの無い時代なら、それも意味のあることだっただろう。しかし、いまはモノがあり過ぎて人間の生活を圧迫する時代だ。「ミニマリズム」という逆のベクトルがないと、あらゆるものがドンドン溜まっていくだろう。それを救ってくれるミニマリズムは現代の「福音」なのだ。