「間借り」の生活。

「間借り」しながら発信します。一応「ミニマリズム」志向してます。

「ミニマリズム」から「ドミトリー趣味」が派生する。

「癖(へき)」と言うほどではないけれど、私には「彷徨」を好む傾向がある。「放浪」というほどではない。経済的にも時間の上でも、他所の土地をふらつき歩くだけの余裕は無いのだ。だからと言って、そういう嗜好を放棄する気もない。それでたどり着いたのがMAX2時間で行ける所に行って、そこで好きにやっているというやり方だ。それだけで私の彷徨への渇望はかなり満たされる。
ずっと同じところで生活するのは、実際のところかなり退屈なことだ。その退屈さゆえに生活への感性は鈍くなり、有難いはずの平和な毎日、つまり「日常」というものにウンザリするようになる。
ミニマリズム」が画期的だったのは、こうして飽きられてしまった「日常」に新たな光を当てて、「生活」を刺激に満ちた新鮮なものに「復活」させたということだ。私に勝手な自由とワガママが許されるとしたら、自宅をもちつつ、あっちこっちに移動して毎日暮らしたい。普段は気分次第で違うところ、新しい場所に寝泊まり(住むというわけではない。)し、疲れてきたらたまに自宅に帰るのだ。だから、自宅は自宅であっても、「寝に帰る」場所に過ぎない。そこに帰れば、いつでも寝たり、くつろいだりできるし、持ち歩けないスタッフはここに置いておくという訳だ。したがって、自宅や自分の部屋を何か「自分らしく」飾るという発想は無い。自宅は自分の裁量で自由に寝泊まりできる、これも又「ドミトリー」なのだ。
したがって私の部屋は、ドミトリーの拡大版のようなのが理想だ。つまり、ベッドか布団があり、タブレットの代わりにパソコンがあり、あとは寛ぎながら過ごすための本なんかがあればいい。趣味のものなんて要らない。そんなのは、スペースを無駄に喰うだけだ。後は着替えや歯ブラシとかタオル、クリームなど、自分を「グルーミング」するものがあればOKだ。これからは、そういう視点で自分の部屋を構成していくつもり。

 

そういう私の理想の住み方に名前を付けるとすれば、「他拠点主義」ということになるだろう。あっちこっちに自分のステーションを作って、そこを渡り歩いて仕事したり休んだりするのだ。それら全てが自分の所有する場所である必要はない。とにかく場所を変えて生活する。それが理想的な生活像だ。なぜそんなに「おかしな」ことをするのか。自宅で全てをするのが最も効率的ではないのか?はっきりした答えは自分でもわからない。でも、この「他拠点主義」を知ってから、私は自分の「生活」や「日常」を大切にするようになったと思う。日常的な生活というのは自分の根本を支えているものなのに、親に全てを賄ってもらいながら、その親を粗末に扱うようなことを「日常生活」に対してしていた。そんなものに神経の僅かだって遣わないし、気を払わないつもりでいた。でも、「ミニマリズム」や「他拠点主義」を知ることで、それら「日常」が在って当たり前だし、いつまでも変わらないものだったのが、変わりうるし、思ってた以上に根拠のないものだとわかって、生活というモノが相対化されるようになって、却ってそれに気を払い、大切にするようになった。
本当言えば、いっそのこと「シェアハウス」にでも住んで、「自宅」というものを喪失したいとも思っている。そうすれば全く変わった世界が見えてくるのではないか。勝手にそう思っている。恐らく「自宅」というものの有難みを思い知って、同じ価値観に戻って来ることになるだろう。でも、それでいいのだ。もしこうした概念(アイデア)を知らずにいたら、私の生活は見た目もスピリッチュアルな意味でも荒れたものになってただろう。私にとって、これは「生活革命」であり、意識の革命なのだ。恐らく「自宅」というよりも「住む」ということに疑いを感じ始めているのだ。「住む」ということや「働く」ということを自分の家や職場の枠内で捉える必要はない時代なのだ。街の中には「サードプレイス」的な場所やモノがあふれ、ネットはどこでだって繋がるようになり、家の中と外での「生活インフラ」に差は無いようになってきた。むしろ外に「アウトソーシング」した方がスッキリ、上手くいくことの方が多いだろう。